餃子

 

 「休みの日は何してるの」と聞かれると、大概の場合は「料理」か「読書」と答えてしまう。

「街に繰り出して遊んでいる」とか「休みの日は来る日も来る日もコンパ」なんて答えを期待している先輩方には申し訳ないけど。

退屈そうな顔で「へえ」と呟く彼らの、活動的で衝動的な日々からすると、今の若者なんてつまらないのかもしれない。

 

とにかくきっかけがない。

そういう類の「遊び」に誘われたところで、適当な理由をつけて断るのだろうけど。

第一に実態がなさすぎる。

「休みの日は遊んでいます」なんて答える自分も想像できないし。

その点、料理や読書はわかりやすくて良い。

料理なんてもう半身が浸かっているようなものだから、あとは勢い良く頭からどっぷりと浸かってしまうだけだ。

生きるために必要なこと、これまで当たり前のようにしてきたこと。

そこからもう少し手を広げれば良いのだから、わざわざ実態のわからないことのために街に繰り出すことはない。

 

という訳で休みになると、手の込んだ料理を作ったりしているのだけれども、それが一筋縄ではいかない。

料理をする上でぶつかる最初で最大の壁が「何をつくるか」というものだ。

「自分の趣味は料理だ」と胸のうちで宣言したのはいい。

が、大した実力はないけども趣味として決めたからにはそれ相応のものを作らなければという、誰に対するものなのかわからない責任感が芽生えてくる。

そうして、自分で生み出した責任感に悩まされ「まあ今日は適当でいいか」というようなことになりかねない(実際に何度もなっている)。

 

子供の頃、良く母親に晩ご飯は何が良いか聞かれた。

唐揚げが食べたい日もあったし、親子丼が食べたい日もあった。

僕なりに考えうる食べ物を頭の中で食卓に並べては置き換えてを繰り返し、何でも良いという結論に至ったこともある。

そんな時に決まって母親は「何でもいいは無し」と言った。

今では当時の母親の気持ちはよくわかる。

僕の場合とは違って母親にはおそらく確固たる責任感があったのだろう。

一家の健康を守るために「まあ今日はいいか」は許されないという。

そうなってしまうと母親も折れないので、最後には餃子を食べたいとよく言った。

結果的に餃子が食卓に並ぶことが多かったし、今でも実家に帰れば飽きることなく餃子を食べている。

 

そんな訳で休みになるたびに壁にぶち当たりささやかな責任を感じながら、少しずつ餃子を作るのがうまくなっていく。